【読書会レポート&作品批評】カズオイシグロ『遠い山なみの光』

読書会レポート

 カズオイシグロ『遠い山なみの光』の読書会レポートです。読書会に興味がある方向けの記事になりますが、今回は原作批評を最後にガッツリ(ゆるくない感じで)しています。

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 今回は映画公開日に合わせて読書会を開催しました。『人間失格』や『こころ』ほど読者がいないと思ったので、前回よりも小さめの会場をとりました。

 9/5(金)【池袋読書会】映画公開日に読書会 『遠い山なみの光』カズオイシグロ

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参加者

 関東に台風が来ており、どうなるかと思いましたが、開催時間の前後には雨も止んでいて無事に実施できました。当日キャンセルの2名を除き、4名(男性3名、女性1名)での少人数開催です。

 お三方とも若くて驚きました。30代は僕だけです。内、お二人が読書会初参加ということでした。どちらもしっかり読み込まれている印象でしたが、全然もっとアバウトな感じで気軽に来てもらっても大丈夫です!

 あまりメジャーな作品ではないので人が集まるか不安でしたが、若い方が読んで来てくれて嬉しかったです。

読書会の雰囲気

 今回は4人という少人数でガッツリ2時間お話ししました。

 『遠い山なみの光』の話だけでなく、参加者の男性が好きな三島由紀夫や村上春樹の話も出て、純文学の読書会らしい会話ができたと思います。普段あまり読書をしないという女性の方が楽しめているか心配でしたが、また参加したいと伝えてくれて安心しました。

 今回も、読書会をこれから主催されるという方がいて、他のお二方が読書会初参加だったのもあり、他の読書会の話も少ししました。

ごはん会(二次会)

 今回は男性参加者1名と主催の2人で大戸屋に寄って帰りました。2人ということもあり、プライベートな話もけっこうして、気づいたら1時間半ほど経っていました。

原作批評

 『遠い山なみの光』は現代日本にとって重要な作品だと思っています。読書会レポートはこのくらいにして、原作批評をしっかりしてみます。長いので、興味がない方はこのあたりでページを閉じることをおすすめします(笑)

 また、ここでは批判的な内容を含みますが、読書会ではみなさんの意見・感想に対して否定したり指摘したりすることはありませんので、安心して参加していただきたいと思います。

原作について

 今回は文庫本の「解説の解説」形式で批評を進めます。早川書房新版の解説を引用します。引用後のページ数はすべて早川書房新版に準じます。

訳者 小野寺健 あとがきより

カズオ・イシグロの世界の本質は、(中略)自分と世の中の関係が分からない、したがって、たとえば過去についても未来についてもどう考えればいいか分からないといったことであり、理想などとは無縁のまま薄闇のなかで手探りでうごいている、そんな人間の状況を描いている(277P)

 これは本作に加え、『浮世の画家』『日の名残り』『わたしを離さないで』『クララとお日さま』にも当てはまります。小野寺さんのような訳者のあとがき・解説は原文にしっかり基づいた内容になることが多く、作品の表層を捉える上で非常に信頼できます。

 一方で、「カズオイシグロの世界の本質は、第五作『わたしたちが孤児だったころ』(2000)に至ってようやくはっきりしてきたように見える」(277P)と書いている(加えて、旧題『女たちの遠い夏』のネーミングからもわかる)ように、当初は作品の根底部分がくみ取れていなかったということになります。

 なぜこの新題がつけられたか、ザっとWeb検索してみましたが、判然とした答えは見つかりませんでした。解説します。

タイトルのネーミングについて

 第七章の二段落 ”アパートの窓から見えるほの白い山々”がその時点で稲佐の山であることに悦子は気付いていません。同章の中頃、佐知子母娘おやこと稲佐へ遊びにでかけたときに初めてそれがいつもアパートから眺めていた山々であることに彼女は気付きます。タイトルの「遠い山なみ」は「稲佐の山々」であることに間違いありません。そしていつも眺めていた山々は、”手を伸ばせ(足を延ばせ)ば、たどり着く場所” だったわけです。

 第七章の二段落、悦子はぼんやり眺めている山々を見て「ほっとすることもあった」とあります。また、稲佐に出かけたことは「幸せなできごとのひとつ」とあるように、稲佐の山々は、激動の長崎で暮らす悦子が感じた「やすらぎや幸せの象徴」であり、ポジティブな素材として扱われていると考えるのが自然です。

 そして「光」について。本作では、1950年代の悦子と佐知子が未来の幸せを見出そうと生きる姿が、物語の大部分を占めて描かれています。複数のテーマを含む作品ですが、タイトルの由来を考えるならシンプルに未来への希望をあらわしていると捉えて問題ないはずです。

 第十章の冒頭「日中の明るい光」や「あちこちの隙間から射しこんでいるつよい光線」、同章後半で荷造りをつづける佐知子の顔半分にあたる「外の薄暗い光」、両手と袂は「提灯の赤みをおびた光を浴びて」など光に焦点を当てた描写が目立ちます。

 小野寺さんはイシグロ氏について「強く明るい希望の光と真っ暗な絶望の光の中間、どちらかというと暗さの勝っている”薄明の世界”を描いており、この感覚が現代人の好み・実感によく合う」(278P)といいます。現代人にとって、強く明るい希望も真っ暗な絶望も身近なものではないですから、”薄明の世界”が「好み・実感によく合う」というのは腑に落ちるところです。

 前述の細かな光の描写、そして”薄明の世界” これらの光が混在する中で、未来への希望を高らかに表現したタイトルであるといえます。

作家 池澤夏樹 解説より

 次は芥川賞の選考委員も務める池澤夏樹さんの解説をみていきます。

人の思いのずれがこの人の文学の主題である(283P)

 これも『浮世の画家』『日の名残り』『わたしを離さないで』『クララとお日さま』に当てはまります。それぞれの作品ごとに描きたいことがあるはずですが、「人の思いのずれ」はどの作品でも描かれています。

 特に本作で顕著でしたが「信頼できない語り手」による物語である点も多くの作品で共通しているところです。

 さて、イシグロ氏の2作目『浮世の画家』も日本が舞台の物語です。3作目の『日の名残り』で「初めて日本人を描く作家から脱却できた」とイシグロ氏本人が語っています。そこで注目したいのが、「日本的心性からの解放」と題された池澤さんの解説文です。

カズオ・イシグロは文学が普遍的な人間の心の動きを扱うものであることを信じてこれを書いた。作品の出来がそれを証明した。sachikoの心はイギリス女やヴェトナム女と変わらない。それが文学の、世界文学の意味である。佐知子と悦子は世界中にいる(289P)

 池澤さんは小野寺さんの翻訳を評価しながら、これは日本が舞台でありつつ、国籍を問わない普遍的な人間の姿を描いたものであると評しています。

サブテーマについて

 本作では1980年代のイギリスを生きる悦子とニキの会話で世代間の価値観の違いが表現されています。これは日本だけでなく世界共通の話であり、まさに普遍的な文学的価値があることの裏付けとなる2つ目のポイントです。

重要なサブテーマ①「精神的豊かさ」

 このサブテーマは、合理主義が加速する現代にもつながる問題で、いまこそ本作を通じて考えるべき内容です。

 豊かな暮らしをしていた藤原さんは戦争で夫を喪い、生活が困窮します。そんな藤原さんを憐れむ緒方に対して悦子は「藤原さんには店がある」と言いました。戦後の長崎を力強く生きる人々が描かれたこの作品において、悦子のこの発言には深いメッセージ性が込められています。そこに示されているのは、人生は物質的豊かさがすべてではないという考え方です。現代の日本において特に重要なのがこの考え方ではないでしょうか。

 悦子はよく「幸せ」という言葉を口にしました。インターネットの普及によって世界がつながった結果、人々はこれまで以上に自己と他者を比較するようになっています。しかし、その比較の基準となる物質的豊かさを必要以上に追求した先に幸せはないはずです。

重要なサブテーマ②「合理性と正しさを希求することの危うさ」

 もうひとつ重要なのが、緒方に対する二郎と松田の態度で示される戦争前後の価値観の変化です。緒方は軍国主義的な教育者で、戦後は批判される対象でした。二郎と松田の緒方に対する批判的な態度はその代表的なものです。しかし、緒方は責められるべき存在なのでしょうか。

 緒方の悦子への態度に注目すればわかるとおり、彼は他者の幸せを望み、他者を重んじることができる人間です。彼らには彼らなりの正義があり、彼らは彼らの時代を、彼らなりに誠実に生きていたはずです。結果的にそれは合理的で正しいといえる行動ではありませんでした。そして戦争に負けたという現実が残ってしまいましたが、彼らの誠実さを「間違いだった」と片づけるのは軽薄です。

 なお、早川書房新版に掲載の三宅香帆さんの解説で「彼らは彼らで後悔を隠して生きている」(301P)とありますが、緒方や『浮世の画家』の小野が後悔の念を抱いているとは読み取れません。『浮世の画家』の小野も戦後批判される側の人間ですが、物語の最後に「少なくともおれたちは信念に従って行動し、全力を尽くして事に当たった」と言っています。彼らは信念を持って誠実に自らを働かせた過去を後悔しているはずがないのです。晩年の小野と松田の会話からもわかるように、そこにあったのは「後悔」でなく、「不条理を感じる心」といえるでしょうか。

三宅香帆さんの文章掲載における背景

 三宅さんは頭の良い方で、人気インフルエンサーとして成功しています。今回の解説はおそらく映画公開がきっかけで作品に触れる新しい読者層を意識して早川書房が依頼したものです。しかし、前述の内容に加え、文章中盤の接続詞「そして」の乱用をはじめとした文章の拙さもあり、文芸評論家の解説文としてはやや疑問を覚えるものでした。早川はSFやエンタメ作品に強い出版社ではありますが、文学作品の扱い方に危うさを感じます。

映画について

  

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おわりに

 今回は批判的なことも書きました。

 繰り返しになりますが、読書会は生い立ちや肩書き、立場を気にせず気軽に参加できる場です。難しいことをいう必要はありませんし、仮に間違ったことを言ってしまっても大丈夫です。

 コミュニケーションの場として楽しくご参加ください!

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